あめりか物語

明治三十六年の秋十月の頃より米國に遊びて今茲明治四十年の夏七月フランスに向ひてニューヨークを去るに臨み、日頃旅窗に書き綴りたるものを採り集めて、あめりかものがたりと題し、謹んでわが恩師にして恩友なる小波山人巖谷先生の机下に呈す。明治四十年十一月里昻にて永井荷風。

船房夜話

 何處いづこにしても陸を見る事の出來ない航海は、殆ど堪へ難い程無聊ぶれうに苦しめられるものであるが、橫濱から亞米利加あめりかの新開地シアトルの港へ通ふ航海、此れもその一ツであらう。

 出帆した日、故國の山影に別れたなら、船客は彼岸の大陸に逹する其の日まで、半月あまりの間、一ツの島、一ツの山をも見る事は出來ない。昨日も海、今日も海―――何時見ても變らぬ太平洋の眺望ながめと云ふのは唯だ茫漠として、大きな波浪なみの起伏する邊に翼の長いくちばしの曲つた灰色の信天翁あはうどりの飛び廻つてゐるばかりである。その上にも天氣は次第に北の方へと進むに連れて心地よく晴れ渡る事は稀になり、まづ每日のやうに空は暗澹たる鼠色の雲に蔽ひ盡さるゝのみかやゝもすれば雨か又は霧になつて了ふ。

 私は圖らずも此淋しい海の上の旅人になつた。そして早くも十日ばかりの日數を送り得た處である。晝間ならば甲板で環投わなげの遊び、若しくは喫煙室で骨牌かるたを取りなぞして、どうか斯うか時間を消費する事が出來るけれど、さて晚餐の食卓テーブルを離れてからの夜になると、殆ど爲す事が無くなつて了ふ。且つ今日あたりは餘程氣候も寒くなつて來たやうだ。外套なしではとても甲板を步いて喫煙室へも行かれまいと思ふ所から、私は其の儘船房キヤビンに閉じ籠つて、日本から持つて來た雜誌でも開かうかと思つて居ると、其の時室の戶を指先でコト〳〵と輕く叩くものがある。

「お這入んなさい。」と私は半身を起しながら呼掛けた。

 戶が開いて、「どうした。又少し動くやうぢや無いか。弱つとるのかね。」

「寒いから引込んで了つた。まア掛け給へ。」と云ふと、

「全く寒いな。アラスカの沖を通るんだと云ふからな。」と餘り濃くない髯を生やした口許に微笑を浮べながら、長椅子ソフワーの片隅へ腰を下したのは柳田君と云つて航海中懇意になつた紳士である。

 中肉中丈、年は三十を一ツ二ツも越して居るらしい。縞地しまぢの背廣の上に褐色ちやいろの外套を纏ひ、高いカラーの間からは華美はでな色の襟飾ネキタイを見せて居る。何處となく氣取つた樣子で膝の上に片脚を載せ、指輪を穿めた小指の先で葉卷シガーの灰を拂ひ落しながら、

「日本なら今頃は隨分好い時候なんだがな…………。」

「さう、全くだよ。」

「何か思ひ出す事でもありやしないかね。」

「はゝは。其ア君お隣りの先生へ云ふ事だ。」

「うむ。お隣りの先生と云へば如何して居る。又例の如く引込んで居るんだらう。呼んで見やうぢや無いか。」

「よからう。」と私は壁をトン〳〵と二三度叩いて見た。少時しばらくは答へが無かつたが、軈て隣りの船房に居る岸本君と云ふのが、私の船室の戶口へ顏を出した。

「ハロオ、カムイン。」とハイカラの柳田君は早速氣取つた發音で呼掛けると、

「有難う。此樣風をして居るですから………。」と岸本君は其の儘佇立んで居る。

「さ、這入り給へ。」と私は長椅子から立つて立掛けてある疊椅子を廣げた。

 岸本君と云ふのは矢張三十近くの稍身丈せいの低い男で、紬の袷とフランネルの一重を重着かさねぎした上に大島の羽織を被つて居る。

「ぢや、失禮します。」と鳥渡腰を屈めて椅子に坐りながら、「洋服はどうも寒くて不可んですから、寢衣ねまきで寢やうかと思つて居たです。」

 すると柳田君は、岸本君の顏を見ながら、

「洋服は寒いですか。」と如何にも不審だと云ふ語調で、「私なんぞは、然うすると全く反對ですね。增して此樣航海中なんか日本服を着やうものなら、襟首が寒くて忽ち風邪を引いて了ふです。」

「さうですかなア。其れぢやア、私は未だ洋服に慣れ無いんですな。」

「柳田君、君はいける口なんだから、どうです、命じませうか。」

「いや、今夜は餘り欲しくは無いです。唯だ退屈だから談話はなしに遣つて來たです。」

「だから、話をするには矢張やつぱりコツプが無いと面白くないでせう。」と私はベルを押しながら、「又例の氣焰を聞かうぢやありませんか。ねえ、岸本君。」

 然し岸本君は返事をせず傾けた顏を起して、「又、大分動いてゐる樣ですね。」

「君。何にしても太平洋だよ。」と柳田君は再び薄いひげひねつた。ボーイが戶を開ける。

「柳田君、君は例の如くウヰスキーですか。」

勿論オフコース」と云ふ返事を聞いてボーイは靜に戶を閉めて立去つたが、其の時吠るやうな太い汽笛の響に續いて、甲板へ打上げる波の音がした。

「成程、少し動搖するね。まア可いさ。今夜は一ツ愉快な雜談會を催したいもんだな。」と柳田君は安樂さうに足を踏み伸したが、和服の岸本君は明い電氣燈のひかつて居る室の天井を見廻しながら、

「どうしたんです。非常に汽笛を鳴らずぢやありませんか。」

「霧が深いからでせう。」と柳田君が說明し掛けた時ボーイは命じた酒類を盆にのせて持運んで來た。そしてベツドの傍の小いテーブルの上に置きコツプへついだ後再び室を出て行く。

「グツドラツク。」と柳田君が第一にコツプをさゝげたので、私等も同じやうに笑ひながらグツドラツクを繰返した。

 何時になつたのか遙に時間を知らせる淋しい鐘の音が聞える。波は折から次第に高まり行くと見え、今はベツドの上の丸い船窓へ凄じく打寄せる響がすると、甲板の方に當つて高いほばしらを掠める風の音が、丁度東京で云ふ二月のカラ風を聞くやうで、其れに連れては何處とも知らずギイ〳〵と何か物のきしむ響も聞え始めた。然し私等は最早や航海には馴れて了つた處から別に醉ふやうなうれひは無い。窓や戶へ帷幕カーテンを引き蒸氣スチームの溫度で狹い船室の中を暖かにして、安樂椅子

...

BU KİTABI OKUMAK İÇİN ÜYE OLUN VEYA GİRİŞ YAPIN!


Sitemize Üyelik ÜCRETSİZDİR!