Title: 火星の記憶(Kasei no kioku) (The Memory of Mars)

Author: Raymond F. Jones

Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi)

Character set encoding: UTF-8

火星の記憶

レイモンド・F・ジョーンズ

 新聞記者は病院にたいしても客観的にならなければならない。記者の仕事は他人の心を揺さぶることで、自分の心をかき乱すことではないのだ。しかしそんなことを言ったって、いまはなんの意味もない、とメル・ヘイスティングスは思った。この病院のどこかで、アリスが生死の境をさまよっているというときには。

 アリスが手術室に入ってから長すぎるほどの時間がたった。なにかまずいことが起きたのだ。彼はきっとそうだと思った。時計を見る。外はもうすぐ夜明けだろう。メル・ヘイスティングスにとって、それは大切な、取り返しのつかない時間の経過を示すものだった。アリスはもうとっくにあの白い洞窟のような手術室から出ていなくてはならないのに。

 メルは重たい椅子にさらに深く沈みこんだ。ゆっくりと忍びよる死が彼にもその触手をのばしてきたかのように、彼はおとなしく観念した。突然はるか遠くのほうで轟音がとどろき、空を横切る一筋の光りが窓から見えた。観光宇宙船マーシャン・プリンセス号だ、と彼は思い出した。

 連れていかれるまえにアリスが最後に言ったのはそのことだった。「よくなったら、すぐにまた火星に遊びに行きましょう。そうしたらあなたも思い出すわ。あそこはとてもきれいで楽しかった――」

 おもしろくて、すてきな、ぼくのアリス――彼女は奇妙な妄想に取りつかれたままだった。ぼくたちが結婚した最初の年に火星旅行に行っただなんて。その信念はほぼ一年まえから彼女に取りつき、彼がなにを言っても、揺らぐことがなかった。二人とも宇宙に行ったことなんかなかったのに。

 いま彼は連れていってやればよかったと思った。それだけの価値はあっただろう、どれだけ苦痛を耐え忍ばなければならないにしても。彼は生まれてからずっと自分を苦しめてきた恐怖症について彼女に話したことはなかった。彼は宇宙空間が恐いのだ。考えただけでも冷や汗が出る。子供のころから何度もうなされた悪夢のことも話したことはなかった。

 恐怖症など、なんとか克服する方法があったはずだ。彼女が行きたがっていた火星旅行に行く方法が。

 しかしもう遅い。遅すぎることを、彼は知った。

 白いドアが開いて、ドクタ・ウインタースがゆっくりと出てきた。彼は長いことメル・ヘイスティングスを見つめていた。まるで新聞記者の名前を思い出そうとしているかのようだった。「お話しがあります。オフィスのほうへ」彼はようやくそう言った。

 メルは麻痺したようにその意味を理解し、目を見開いて相手を見つめ返した。「死んだんですね」

 ドクタ・ウインタースはゆっくりとうなずいた。メルに事実を見抜かれ、驚き、いぶかるような様子だった。「オフィスでお話ししましょう」と彼はくり返した。

 メルは医者のうしろ姿を見ていた。ついていっても仕方がないような気がした。ドクタ・ウインタースは言うべきことをすべて言った。廊下のむこうで医者は振り返り、辛抱強く立ち止まっていた。ついてこない理由はわかっているが、しかしついてくるまで待とうと決心したかのように。記者はもぞもぞと動いて椅子から立ちあがった。足に力が入らなかった。近づくにつれドクタ・ウインタースの姿はますます大きくなった。病院の朝の喧噪が耳をつんざくように響いた。オフィスのドアがしまり、騒音をさえぎった。

 「奥さまはお亡くなりになりました」ドクタ・ウインタースは机のうしろに坐り、手を組み合わせたり離したりした。彼はメルのほうを見なかった。「われわれはできるかぎりのことをしました、ミスタ・ヘイスティングス。事故のけがは比較的軽く――」彼は躊躇して、またつづけた。「通常の場合なら、まったく問題なく――けがの処置ができたはずです」

 「どういうことです?通常の場合なら、とは?」

 ドクタ・ウインタースは耐えがたい苦痛を避けるようにメルの視線から顔をそらした。彼は疲れたように額と眼をもみ、一瞬そこを押さえてから話しだした。彼はふたたびメルと目を合わせた。「あなたが昨夜連れていらっしゃった女性――あなたの奥さまは――体内の構造が普通とはまったく異なるのです。内臓の識別すらできません。ちがう生物の身体みたいなのです。彼女は――要するに人間じゃないのです、ミスタ・ヘイスティングス」

 メルは相手をぽかんと見つめ、その言葉の意味をつかもうとした。意味はどうしてもわからなかった。彼は咆哮のような、短い、ヒステリックな笑い声をあげた。「なにを言っているです、先生。気でもふれたんじゃないですか?」

 ドクタ・ウインタースはうなずいた。「きのうの晩、わたしもずっとそう思っていました。奥さまの状態をはじめて見たとき、自分は頭がどうかしてるんじゃないかと思いました。ほかの医者を六人呼んで、彼らにわたしの見たものを確認してもらいました。だれもかれも、それを見てあっけにとられたのです。人間の身体にはない内臓。どんな生命体にも見られない化学反応――」

 医者の言葉は荒波のように彼を襲った。それは彼を水中に沈め、呼吸をふさぎ、息の根をとめようと――。

 「見せてください」メルの声は遠くの、うつろな咳払いのようだった。「あなたは頭が変なんだ。自分のミスを隠そうとしているんじゃないですか。簡単な手術でアリスを殺してしまい、だれも信じないようなバカげた話しで責任逃れしようとしている!」

 「見ていただきましょう」ドクタ・ウインタースはゆっくりと立ちあがりながら言った。「そのためにここにお呼びしたのです、ミスタ・ヘイスティングス」

 メルはふたたび医者について長い廊下を歩いていった。二人のあいだに言葉はかわされず、メルにはもはやすべてが非現実的に感じられた。

 手術室の白いドアを通り、さらにその奥のドアを抜けた。彼らは白く静まりかえった、冷たい部屋に入った。

 氷のような白色光に照らされて、シーツにおおわれた一体の人間の姿が手術台に横たわっていた。メルは急に見たくない気がしたが、ドクタ・ウインタースはもうおおいを取りのけていた。顔が、いとしいアリス・ヘイスティングスの顔があらわれた。メルは妻の名を叫んで手術台に近づいた。顔はただ眠っているだけのような印象しか与えなかった。髪は乱れていたが、顔には彼が何百回と見た、あのゆったりとくつろいだ表情があった。

 「見ることができますか」とドクタ・ウインタースは心配そうに訊いた。「鎮静剤をさしあげましょうか」

 メルは感情を失ったように頭をふった。「いいえ――見せてください」

 できたばかりの大きな傷痕が腹部をななめに走り、枝分かれして心臓の下まで伸びていた。医者は小さなはさみをつかんで、一時的に縫い合わせた糸を手早く切った。鉗子と開創器を使って巨大な切開のあとが広げられた。

 メルは吐き気をもよおし目を閉じた。

 「壊疽だ!どこもかしこも壊疽を起こしている!」

 皮膚と脂肪組織の表層下で、傷ついた組織体が濃い赤から死の腐乱を示す暗緑色に変わっていた。

 しかしドクタ・ウインタースは首を横に振っていた。「いいえ、壊疽じゃありません。われわれが見たときも、この状態だったのです。どうもこれが、その、正常の状態のようです」

 メルは信じることも理解することもできず、ただ目を見張った。

 ドクタ・ウインタースは傷口をさらに広げた。「ここには胃があるはずなんです」と彼は言った。「そのかわりにあるこれがなんなのか、わたしにはわかりません。この内臓には名前がないのですよ。ここは腸管があるところです。でもこの緑色を帯びたゼラチン状の物質が均質に広がっているだけ。ほかにも、肝臓、膵臓、脾臓のある位置に内臓組織があります。このゼラチン状の物質とほとんど区別がつかないのですが」

 メルはその声をはるか遠くで、あるいは夢の中で聞いているようだった。

 「肺というか、肺のようなものもあります」と医者はつづけた。「たしかに呼吸はできました。それから非常に変形した循環系があります。二つあるようですね。一つはほとんど正常といっていい表層組織に血液を送るもの。もう一つは内臓を緑がかった色にしている液体を送るものです。でもどうやって循環させていたのかはわかりません。心臓ハートがありませんから」

 メル・ヘイステ

...

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