Title: 惡魔 (Akuma)
Author: 谷崎潤一郞 (Junichiro Tanizaki)
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.
惡魔
眞つ暗な箱根の山を越すときに、夜汽車の窓で山北の富士紡の灯をちらりと見たが、やがて又佐伯はうとうとと眠つてしまつた。其れから再び眼が覺めた時分には、もう短い夜がカラリと明け放れて、靑く晴れた品川の海の方から、爽やかな日光が、眞晝のやうにハツキリと室内へさし込み、乘客は總立ちになつて、棚の荷物を取り片附けて居る最中であつた。酒の力で漸く眠り通して來た苦しい夢の世界から、ぱつと一度に明るみへ照らし出された嬉しさのあまり、彼は思はず立ち上がつて日輪を合掌したいやうな氣持になつた。
「あゝ、これで己もやうやう、生きながら東京へ來ることが出來た。」
斯う思つて、ほつと一と息ついて、胸をさすつた。名古屋から東京へ來る迄の間に、彼は何度途中の停車場で下りたり、泊つたりしたか知れない。今度の旅行に限つて物の一時間も乘つて居ると、忽ち汽車が恐ろしくなる。さながら自分の衰弱した魂を恐喝するやうな勢で轟々と走つて行く車輪の響の凄じさ。グワラ〳〵グワラと消魂しい、氣狂ひじみた聲を立てゝ機關車が鐵橋の上だの隧道の中へ駈け込む時は、頭が惱亂して、膽が潰れて、今にも卒倒するやうな氣分に胸をわくわくさせた。彼は此の夏祖母が腦溢血で頓死したのを見てから、平生大酒を呷る自分の身が急に案じられ、何時やられるかも知れないと云ふ恐怖に始終襲はれ通して居た。一旦汽車の中で其れを思ひ出すと、體中の血が一擧に腦天へ逆上して來て、顏が火のやうにほてり出す。
「あツ、もう堪らん、死ぬ、死ぬ。」
かう叫びながら、野を越え山を越えて走つて行く車室の窓枠にしがみ着くこともあつた。いくら心を落ち着かせようと焦つて見ても、强迫觀念が海嘯のやうに頭の中を暴れ廻り、唯わけもなく五體が戰慄し、動悸が高まつて、今にも悶絕するかと危まれた。さうして次の下車驛へ來れば、眞つ靑な顏をして、命から〴〵汽車を飛び下り、プラツトホームから一目散に戶外へ駈け出して、始めてほつと我れに復つた。
「ほんたうに命拾ひをした。もう五分も乘つて居れば、屹度己は死んだに違ひない。」
などゝ腹の中で考へては、停車場附近の旅館で、一時間も二時間も、時としては一と晚も休養した後、十分神經の靜まるのを待つて、扨て再びこは〴〵汽車に乘つた。豐橋で泊まり、濱松で泊まり、昨日の夕方は一旦靜岡へ下車したものゝ、だんだん夜になると、不安と恐怖が宿屋の二階に迄もひたひたと押し寄せて來るので、又候其處に居たたまらず、今度はあべこべに夜汽車の中へ逃げ込むや否や、一生懸命酒を呷つて寢てしまつたのである。
「それでもまあ、よく無事に來られたものだ。」
と思つて、彼は新橋驛の構内を步みながら、今しも自分を放免してくれた列車の姿を、いまいましさうに振り顧つた。靜岡から何十里の山河を、馬鹿氣た速力で闇雲に駈け出して、散々原人を嚇かし、勝手放題に唸り續けて來た怪物が、くたびれて、だらけて、始末の惡い長いからだを橫へながら、「水が一杯欲しい。」とでも云ひさうに、鼻の孔からふツふツと地響きのする程ため息をついて居る。何だかパツクの繪にあるやうに、機關車が欠伸をしながら大きな意地の惡い眼をむき出して、コソコソ逃げて行く自分の後姿を嘲笑して居るかと思はれた。
人々の右往左往するうす暗い石疊の構内を出で、正面の玄關から俥に乘る時、彼は旅行鞄を兩股の間へ挿みながら、
「おい、幌をかけてくれ。」
かう云つて、停車場前の熱した廣い地面からまともにきらきらと反射する光線の刺戟に堪へかね、まぶしさうに兩眼をおさへた。
漸く九月に這入つたばかりの東京は、まだ殘暑が酷しいらしかつた。夏の大都會に溢れて見える自然と人間の旺盛な活力―――急行列車の其れよりも更に凄じく逞しい勢の前に、佐伯はまざまざと面を向けることが出來なかつた。劍のやうな鐵路を走る電車の響、見渡す限り熱氣の充滿した空の輝き、銀色に燃えてもくもくと家並の後ろからせり上がる雲の塊、赭く乾いた地面の上を、强烈な日光を浴びて火の子の散るやうに步いて行く町の群衆、―――上を向いても、下を向いても、激しい色と光りとが弱い心を壓迫して、俥の上の彼は一刻も兩手を眼から放せなかつた。
今迄ひたすら暗黑な夜の魔の手に惱まされて居た自分の神經が、もう白日の威力にさへも堪へ難くなつて來たかと思ふと、彼は生きがひのない心地がした。これから大學を卒業する迄四年の間、晝も夜も喧囂の騷ぎの絕えぬ烈しい巷に起き臥しして、小面倒な法律の書物や講義にいらいらした頭を泥ませる事が出來るであらうか。岡山の六高に居た時分と違ひ、本郷の叔母の家へ預けられれば、再び以前のやうな自墮落な生活は送れまい。永らくの放蕩で、腦や體に滲み込んでゐるいろ〳〵の惡い病氣を直すにも、人知れず醫者の許に通つて、こつそりと服藥しなければなるまい。事によると、自分は此のまゝだんだん頭が腐つて行つて、廢人になるか、死んでしまふか、いづれ近いうちにきまりが着くのだらう。
「ねえあなた、どうせ長生きが出來ない位なら、わたしがうんと可愛がつて上げるから、いつそ二三年も落第して此處にいらつしやいよ。わざ〳〵東京へ野たれ死にをしに行かなくてもいゝぢやありませんか。」
岡山で馴染みになつた藝者の蔦子が、眞顏で別れ際に說きすゝめた言葉を思ひ出すと、潤ひのない、乾涸らびた悲しみが、胸に充ち滿ちて、やる瀨ない惱ましさを覺える。あの色の靑褪めた、感じの銳い、妖婦じみた蔦子が、時々狂人のやうに興奮する佐伯の顏をまぢまぢと眺めながら、よく將來を見透すやうな事を云つたが、殘酷な都會の刺戟に、肉を啄かれ、骨をさいなまれ、いたいたしく傷けられて斃れて居る自分の屍骸を、彼は實際見るやうな氣がした。さうして十本の指の間から、臆病らしい眼つきをして、市街の様子を垣間見た。
俥はいつか本郷の赤門前を走つて居る。二三年前に來た時とは大分變つて、新らしく取り擴げた左側の人道へ、
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