Title: 羹 (Atsumono)
Author: 谷崎潤一郞 (Junichiro Tanizaki)
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.
羹
谷崎潤一郎
一
汽車は沼津を出てから、だんだんと海に遠ざかつて、爪先上りの裾野の高原を進んで行くらしかつた。八月の眞晝の日光が、濃い藍色に晴れた空から眞直に射下して、折々一寸二寸ぐらゐづゝ、窓枠の緣を燒附けて居た。
橘は此の暑いのに一高の小倉の制服をきちんと着込んで、乘客の疎らな二等室の片隅に腰を掛けて居た。彼の向ひ側には十七八の藝者らしい女と、其の姐さん株か、乃至は待合の女將かと推測される四十近い婦人が、俥の膝懸を臀に敷いて、双方から凭れかゝるやうにしどけなく坐りながら、富士山の頂上を眺めつゝ、何かひそ〳〵と語り合つて居た。車の動搖するままに、柔かいびろうどの蒲團が馬の背の如く躍り上ると、肉附の好い藝者の體はしなやかに揉まれて、房々とした髮の毛まで、鳥が呼吸をするやうに、ふわり、ふわりと顫へて見える。
豐川稻荷へでもお參りに行つた歸りであらう。豐橋、濱松、辨天島あたりの旅館のレツテルを貼つた荷物やら土產やらが、椅子の下にも棚の上にも澤山載せてあつた。若い方のが、足許のお茶の土瓶を取り上げて、
「姐さん、歸るまで保つでせうか。」
と云ひながら、蓋を開いて覗き込むと、
「大丈夫だとも、家へ持つて行けば屹度鳴き出すよ。」
かう云つて年寄も一緖に覗いて居る。土瓶の中には、大方河鹿でも入つて居るらしい。
「若しか途中で死んぢやつたら、口惜しいわね。」
と、若い女はあどけない口元で笑つて居る。
一二時間の後、国府津の停車場へ着いてから、東京まで密に自分と同乘する筈の美代子が入つて來たら、此の女逹はどんな眼つきをするだらう。さう考へると、橘は面白いやうな、恐ろしいやうな氣持がした。學生としては贅澤な二等室を選んだのも、美代子の便利を慮つた爲めであるのに、かう云ふ女と乘り合はせては、却つて肩身の狹い思ひをしなければならない。あの愼ましやかな、お孃さん育ちの美代子の事だから、氣の毒な程小さくなつて、自分の側へひつそりと身を倚せかけはしないだらうか。
其の時のいぢらしい姿を想ふと、彼は又抑へ切れぬ樂しさと歡ばしさに襲はれた。六月の末、沼津へ行き掛けに箱根を訪れて、病み上げの杖に縋りながら、美代子と一緖に大涌谷を見物したのは、もう二た月ばかり前になる。一旦生命迄も奪られようとした病ひの痕を癒やすべく、それから每日々々千本松原の汐風に體を鍛へて、面變りのする程眞黑に肥太つた現在の樣子を見せたらば、どんなに美代子は嬉しがるだらう。初戀の人と唯二人、生まれて始めて汽車旅行を試みる今日の機會に、何もそれ程世間を憚る必要はあるまい。美代子に對する自分の感情が純潔である以上、少しも疚しくない證據に、自分は殊更學校の制服を纏つたのではないか。………彼はかう度胸を据ゑて、勇躍するやうに窓際へ立ち上つた。
戶外には涼しい風がぱた〳〵と鳴つて鍔の廣い麥藁帽子を飛ばさんばかりに、吹き通して居た。彼は襟頸に滲み出た汗の一時乾き切るやうな心地よさを味はひながら、窓枠に兩肘を衝いて、沿道の景色を眺め入つた。
いつの間にか汽車は御殿場近くの山麓をどん〳〵走つて居る。冲天に輝く太陽の威力を眞向に浴びて、赭色の山肌を露はにして居る裸體の富士の、ひろ〴〵と擴げた裳裾の上には、箱庭のやうな森や人家が點々と連なつて、見て居る中に後の方へ辷つて行く。足柄箱根の山の肩が、次第々々に近く高く右の方から突出て來る。時々四角な田や畑が、前の方から線路の傍へ跳び込んで來て、忽ちいびつな菱形に歪みながら、遙かに遠く押し流される。左に見えた愛鷹山の靑い背中が、だん〳〵と富士の裏側へ駈込むやうに隱れて了ふ。
何と云ふ愉快な景色であらう。………何と云ふ愉快な日であらう。………彼は今日程此の邊の風光を美しく、面白く眺めたことはなかつた。瞳に映る山川草木が、悉く自分の仕合せな身の上を祝福して、媚び諂つて居るかのやうに感ぜられた。戀と健康との喜びが、心の髓まで浸み徹して、凡ての物を彼の眼前に輝かせてくれるのであつた。彼は戀人の容貌を見、戀人の聲を聞くのと同じやうな樂しい心地で山々の姿に見惚れ、裾野の風に耳を傾けた。
早く、一刻も早く國府津まで飛んで行きたかつた。もう何時間………もう何分………かう思つて彼は待遠しさうにポツケツトから時計を抽き出したり、焦れツたさうに足踏みをしつゝ口笛を鳴らしたりした。其の間も、急速力の汽車は絕ゆる隙なく距離を縮めて、國境の山の峽を傳はつて居た。兩側から地勢の迫るに隨ひ、曠漠たる裾野の末は小さく狹まれて、岡や林が眼近く立並ぶやうになつた。遠くに聳えて居た一つの峰が二つに割れて、幽邃な谷を開いて迎へたり、雜草の底に囁いて居た溪流が、やがて白い泡の巌を嚙む河床を現したり、斷崖の角を曲る度每に、一つ一つ新しい山懷が右に左に展けて行つた。どうかすると靑空が高く隱れて、牢獄のやうな絕壁の石垣ばかりが、つい窓際に長く長く續いた。其れが盡きると、ぱつと眼界が明るくなつて、山勢が遠く遠く退き、尾上の木々の繁みの中から、細い瀧がちらちらと落ちたりした。
隣の一等室のドーアを開けて、十三四のボーイが急ぎ足で入つて來た。さうして、スヰツチを捻つて室内の電燈をつけると、今度はばたりばたりと片ツ端から窓硝子を締め始めた。
「ボーイさん、トンネルなの?」
後向きに俯むいて居た若い藝者が、重さうな額を擡げて訊いた。
「えゝ、もう直きでございます。」
「さう、トンネルは幾つあつて?」
「八つございます。」
行儀よく直立して、かう答へた後、ボーイはつか〳〵と次の車室へ步み去つた。
「あゝ。」
と、輕い溜息をして、藝者はハンケチを蟀谷へあてながら、倒れるやうに臥轉ぶと等しく、眞白な空氣枕へ銀杏返しの頭を載せた。
間もなく、ガラガラガラと凄じい音響の底へ引き入れられると、欄間から白い烟が朦々と舞ひ込んで、黃色い鈍い燈の光が、蒸し暑い部屋の中に濁り漂つた。汽車は暫く八つのトンネルを出つ入りつした。
「此のトンネルさへ越して了へば、國府津は...